栗原孝太郎の半生HISTORY
「もっと、広い世界へ」
1982年、僕は佐賀県唐津市に生まれました。
建築会社を営む父親。
これが、孝和建設のはじまりです。
お人好しの父親。
友人に騙されて、多額の借金を背負ったことも。
たぶん、僕が幼稚園生の頃。
家計も厳しくなったのか、祖父の家で食事をしていた記憶があります。
それから、祖父(材木店経営)の援助もあり、なんとか経済的にも回復した栗原家。
小学校に入学する頃には、
それなりに裕福な生活をしていたと思います。
バスケに汗を流し、唐津代表になったことも。
しかし、6年生の時の話。人生を変える事件が起きます。
クラスの複数人からいじめられるようになったのです。
集団シカトが始まりました。
修学旅行もひとりで行動したのは、ツライ思い出ですね。
そして、僕はこう思いました。
「なんだこいつら。くだらねえ、卒業したらこいつらのいないところへ行こう」
もちろん、僕にも悪いところはあったと思います。
今では仲直りもしていますが。だけど、よってたかって一人を・・・
昨日まで友だちだったからこそ余計に辛かったんです。
初めて知った人の痛み。自分は、絶対に人をいじめないと誓ったのでした。
小学卒業後は、福岡市の私立中学校へ進学。
その中学校は、新設校で、先輩もいない。
しがらみもなく、とにかく自由でした。
広い世界に飛び込んだ僕は、いろんな刺激を受けます。
映画、音楽、ファッション。友人もたくさんできました。
パソコンも買ってもらい作曲とか始めました。
その時から、クリエイティブなことに興味があったんでしょうね。
徐々に、世界を、視野を広げていきました。
そして、中学校3年生のとき。
子ども3人だけでオーストラリアに行くという体験をしました。
「世界って広い。まだ知らないことがたくさんあるな」
と思ったことを今でもハッキリと覚えています。
高校進学は、エスカレーター式に。
友人とバンドを組んだり、遅くまで語り合ったり。
まさに青春を謳歌しました。とにかくモテたかった。
そんな楽しい時期にも、終わりが来ます。
進路を決めなければなりません。
音楽の道も考えましたが、西南大学に進学しました。
さて、花の大学生活の始まりです。
音楽サークル、住み込み農業体験、福岡ドームでの運動会など、
大学生しかできない体験をしました。
就職は、公務員になりたい!
地域を変えたい!官僚になってやろう!と思っていました。
無理矢理、●●●省にインターンを申し込んで 受け入れてもらいました。(本当は受け入れていません!笑)
しかし、全然、かっこいい大人がいなかった。
じゃあ、東京に行こう!思い始めました。
片っ端から大手を受けて、無事、内定をゲット。
就職先は、広告業界です。
就職が決まったら、卒業までは自由の身。
猿岩石に憧れていた僕は、「ユーラシア大陸横断」の旅に出るのです。
無謀でしょう?たった一人でですよ?
雑誌をスポンサーにつけて、ギター1本だけからって、出かけました。
連載を寄稿しながらの旅。
ちょっと有名な大学生になりました。
無事に帰ってきたら、いよいよ就職です。
ここまでが第1章。2章へ続きます。
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